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2018年12月02日

その331 過去に捉われない

子曰く、成事(せいじ)は説かず、遂事(すいじ)は諫めず、既往(きおう)は咎めず。

【筆者意訳】既に出来てしまったことは、とやかく言っても始まらない。やってしまったことは、諫めても仕方がない。過ぎてしまったことは、とがめても仕方がない。

【ひとこと】この章句は、『論語』八佾編に出てきます。全体が長い文章なので、後半の有名な一節を取り出しました。
この文章の前段には、次のような話があります。

魯の哀公が、宰我(さいが・孔子の弟子)に土地の社(やしろ)に植える御神木について尋ねた時、 宰我は”夏の時代には松を植え、殷の時代には柏(はく)を植え、周の時代には栗を植えています。これは社で行われる刑罰によって人々を戦慄(栗)させるためであります”と答えました。
このことを後で聞いた孔子が、本日取り上げた言葉を発したのです。
宰我が「栗」の文字と戦慄の「慄」の文字をひっかけて、人民に恐怖心を起こさせて統治するために栗を植えるという、勝手な解釈を魯国王に吹き込んだことを、”なんてことをしてくれたんだ”という思いで発した言葉だと推察します。

「成事不説、遂事不諫、既往不咎」とは、有名な諺になっていますが、現代風に訳しますと、
事が終わったあとに、「だから私はあれほど言ったんだ」などといっても始まらない。取り返しのつかないことをしてしまった人に、「なんてことをしたんだ」と追求しても仕方がない。昔のことを掘り返して、「どうしてお前はあんなことをしてしまったんだ」と咎めても意味がない。となるでしょうか。

「過去と他人を変えることはできないが、未来と自分は変えることが出来る」という言葉があります。
教えの一つは、過ぎ去ったことを悔やんだり歎いたりしても、起きてしまった事実を変えることは出来ない。しかし過去をどのように受け止めるかによって、より良い生き方が出来るように未来を変えていくことは出来るということ。
もう一つの教えは、他人を自分の思い通りに変えることはできないが、自分が変わる事によって相手との関係を変えていくことが出来るということだと思います。
私たちは、誰もが、幸せになるために生きています。成事・遂事・既往に捉われ過ぎることなく、明日に向かって眼を開き、歩を進めることが大事なのです。


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