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2019年01月07日

その366 人間の価値

孔子曰わく、誠に富を以てせず、また秖(まさ)に異なれるを以てす。斉の景公、馬千駛(せんし)あり。死するの日、民徳として稱(しょう)する無し。伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)は首陽の下に餓う。民今に至るまで之を稱す。それ斯を之れ謂うか。

【筆者意訳】詩経に「まことに富によらず、ただ富とは異なるものによる」とある。斉(せい)の景公は、馬四千頭を所有するほど裕福であったが、死んだ時、人民は有徳の人として称えることはなかった。伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)の兄弟は、周王朝から去って首陽山のふもとで餓死するほど困窮を極めたが、人民は今でもこの兄弟の徳を称えている。この詩はこのことを詠ったのであろう。

【ひとこと】この章句は、『論語』季氏編に出てきます。この章句の現代語訳は意訳の通りですが、より深く理解して頂くために、背景を若干解説します。

斉の景公は孔子と同時代の人で、孔子も面会しています。暗愚な君主とされていますが、晏嬰(あんえい)という名宰相を得たことで安定した政治を行うことができました。景公は、間違いを犯すたびに晏嬰(あんえい)に注意されて反省するのですが、すぐにそのことを忘れてしまう程凡庸だったようです。その反面贅沢好きで、馬四千頭を所有したと例えられるように富裕を極めたとされます。

一方で伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)の兄弟は、周の武王が殷(いん)王朝最後の紂王(ちゅうおう)を誅罰しようとした時、臣下である者が主君を討つのは不徳であるとして武王を諫めました。しかし聞き入れられなかったため身を引き、首陽山の麓に隠れて蕨を食べて暮らしましたが、最後は餓死してしまいました。当時周の国は、殷王朝の配下にあったため、武王の行為は謀反に相当するものでした(明智光秀が織田信長を討ったのと同じ構造ですね)。伯夷・叔斉は主君に対する忠義を貫いたということで、有徳の人物として後世称えられたのです。

『詩経』の「誠に富を以てせず、また秖(まさ)に異なれるを以てす」とは、”人間の真の価値は、経済的な裕福さではなく、人が敬意を抱く徳行にある”ということを語っています。共感できる言葉ではないかと思います。
孔子は、斉の景公、伯夷・叔斉の事例を挙げて、徳の大切さを説いているのです。


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