2018年12月05日
その334 諫め方、諫められ方
子游曰く、君に事(つか)うるにしばしばすれば、斯(ここ)に辱しめらる。朋友にしばしばすれば、斯に疎んぜらる。
【筆者意訳】子游(しゆう)が言った。「主君に仕えてうるさいことを言うと、(面倒に感じた主君から)恥辱を受けることになる。友達に対してうるさいことを言うと、(煩わしく思った友達から)嫌われ疎んぜられるようになる。」
【ひとこと】この章句は、『論語』里仁編に出てきます。孔子より45歳若い弟子、子游(しゆう)の言葉です。主君(上司と考えてもいいでしょう)や友人との人間づきあいの基本を語ったものです。
主君(上司)に同じような諫言を何度も繰り返しすれば、うるさい奴だと思われて遠ざけられ、友人に同じような忠告を何度もすれば、煩わしい奴だと思われて疎遠にされるという話です。
上司や友達に対して良かれと思っても、注意をするにはそれなりの覚悟が必要だという事、注意も程々にしておいたほうがいいという事ですね。
『論語』の別の所でも、孔子が子貢(しこう)に対して、「子貢、友を問う。子曰わく、忠(まめ)やかに告げて善く之を導き、不可なれば則ち止む。自ら辱めらるること無かれ(顔淵編/その45参照)」と答えている文章がありますから、いくら良かれと思っても、やり過ぎは逆効果になると、弟子たちに教えていたのでしょう。
子游はそういった孔子の教えを、自分の言葉で弟子に語ったのだと思われます。
注意ごとは、言う方も聞く方も神経を使います。それは昔も今も変わりません。
江戸時代の儒学者・佐藤一斎も、著書『言志四緑』の中でこう言っています。「諫めを聞く者は、もと須(すべか)らく虚懐なるべし。諫めを進む者も亦須らく虚懐なるべし。」
虚懐とは虚心坦懐(きょしんたんかい)、わだかまりの無い心の事。諫める側に立っても、諫められる側に立っても、相手の心情を慮って誠意をもって話す・聴くということが大切でしょうね。私たちはどちらの立場にもなる可能性があるのですから。
【筆者意訳】子游(しゆう)が言った。「主君に仕えてうるさいことを言うと、(面倒に感じた主君から)恥辱を受けることになる。友達に対してうるさいことを言うと、(煩わしく思った友達から)嫌われ疎んぜられるようになる。」
【ひとこと】この章句は、『論語』里仁編に出てきます。孔子より45歳若い弟子、子游(しゆう)の言葉です。主君(上司と考えてもいいでしょう)や友人との人間づきあいの基本を語ったものです。
主君(上司)に同じような諫言を何度も繰り返しすれば、うるさい奴だと思われて遠ざけられ、友人に同じような忠告を何度もすれば、煩わしい奴だと思われて疎遠にされるという話です。
上司や友達に対して良かれと思っても、注意をするにはそれなりの覚悟が必要だという事、注意も程々にしておいたほうがいいという事ですね。
『論語』の別の所でも、孔子が子貢(しこう)に対して、「子貢、友を問う。子曰わく、忠(まめ)やかに告げて善く之を導き、不可なれば則ち止む。自ら辱めらるること無かれ(顔淵編/その45参照)」と答えている文章がありますから、いくら良かれと思っても、やり過ぎは逆効果になると、弟子たちに教えていたのでしょう。
子游はそういった孔子の教えを、自分の言葉で弟子に語ったのだと思われます。
注意ごとは、言う方も聞く方も神経を使います。それは昔も今も変わりません。
江戸時代の儒学者・佐藤一斎も、著書『言志四緑』の中でこう言っています。「諫めを聞く者は、もと須(すべか)らく虚懐なるべし。諫めを進む者も亦須らく虚懐なるべし。」
虚懐とは虚心坦懐(きょしんたんかい)、わだかまりの無い心の事。諫める側に立っても、諫められる側に立っても、相手の心情を慮って誠意をもって話す・聴くということが大切でしょうね。私たちはどちらの立場にもなる可能性があるのですから。