› 今日の論語・・大切なひとこと

  

2019年11月21日

「論語の勉強会」開催

11月18日 浜松市内の某所で、「論語の勉強会」を開催しました。
今回で3回目になりますが、有志の方17名にご参加いただきました。
コーヒータイムも含めて2時間の勉強会でしたが、充実した時間でした。



論語の話を聞いてみたいという方、一度ご相談ください。テーマは
 ①論語の精神に触れる
 ②君子・徳・学ぶということ
 ③リーダー・交友・生き方
 ④孔子の弟子たち
 ⑤孔子の生涯と流浪の旅
 ⑥日本人と論語
と、一応用意していますが、ご希望によりアレンジいたします。
ご相談は、コメント欄への記入又は下記メールアドレスへ。
 t6a-mura00@yk.commufa.jp  

Posted by 知好楽 at 08:49Comments(0)

2019年03月09日

「今日の論語」終了にあたって

皆様へ
長期間に渡りご愛読いただきましてありがとうございました。
1年3か月に渡った『今日の論語』のコラムも、これにて終了とさせていただきます。
始めた時は、どこまで続けられるか一抹の不安もあったのですが、読んでくださる方の存在に励まされてここまで続けて来られました。唯々感謝です。

『論語』には、全部で約500の章句が記載されていますが、重複があったり、孔子の日常生活の様子が書かれているだけで、取り上げにくい章句もありますので、これをもって一区切りとさせていただくこととしました。

私自身、このコラムを投稿していく過程で『論語』を学び直す中で、新たな見方・気付きをたくさん得ることが出来ました。改めて『論語』の奥深さを認識した次第です。
皆様の中で『論語』に興味を持たれ、より深く学ぼうという方がいらっしゃれば、私としても望外の喜びです。

さて、これからの事になりますが、少し時間を頂いて後、『今日の言志四録』のコラムを開催したいと考えています。
佐藤一斎という江戸時代の大思想家であり、幕末から明治の時代の変革の中で活躍した志士に多大な影響を与えた人物の言葉に触れ、今を生きる私達や社会に活かせる思考やヒントを探っていきたいと思います。
同じ「はまぞう」のポータルサイトで投稿していきますので、もしよろしかったらお付き合いください。
下記URLで掲載します。
https://chikoraku2.hamazo.tv/  

Posted by 知好楽 at 08:44Comments(2)

2019年03月08日

その425 リーダーの要諦

孔子曰わく、命を知らざれば、以て君子たること無きなり。礼を知らざれば、以て立つこと無きなり。言を知らざれば、以て人を知ること無きなり。

【筆者意訳】天命(天が命じ与えた使命)を知らなければ、君子(真のリーダー)とは云えない。礼儀・礼節を知らなければ、人の上に立つことはできない。言葉の深い意味を知らなければ、真に人間を理解することはできない。

【ひとこと】この章句は、『論語』堯曰編の最後に出てきます。500章句に渡る『論語』の最後を締めくくる章句です。
この章句の紹介を以て、私の『今日の論語』のコラムを終了としたいと思います。

文章には起承転結があるものですが、本章句は『論語』の結文に相応しい言葉だと思います。『論語』の編纂者も、意図してこの章句を最後に持ってきたのだと推察します。

孔子は、乱れた世の中を正して、徳の高いリーダーの下、節度ある平和な世の中を築くという志を立て、良き時代であった周王朝前半の治政や為政者の精神、更にその昔の聖人の治政に学びました。そして学んだものを弟子達に教え、徳治政治を実現し得る有徳なリーダーを育てることに生涯を費やしました。
本章句は、孔子の目指した有徳のリーダー像の要諦を、簡潔に表現したものです。孔子が目指した教育のアウトプットの姿ともいえるでしょう。即ち、リーダーには、
 ①天から与えられた自分の使命を理解し、それを果たそうとする志を持っていること。
 ②人を大切に扱うことを知っていること(礼儀・礼節は人を大切に思う心の表われです)。
 ③言葉の持つ意味、使い方の重要性を理解し、適切に扱うことが出来ること。
の要件が必須だということですね。

時代によって求められるリーダー像は変わっていくものですが、この三つの要諦はいつの時代でも必要とされる、リーダーの普遍的な要件ではないかと思います。その意味に於て、孔子が成し遂げた業績は偉大なものであることは間違いありません。しかしながら孔子の理想とした世界は、その生前はおろか現代に至るまで実現されてはいません。だからこそ孔子の精神は、2500年を経過した現代でも色あせることなく、私たちの人生に、社会に響いてくるのだと思います。  

2019年03月07日

その424 子貢の働き(その2)

叔孫武叔(しゅくそんぶしゅく)仲尼を謗(そし)る。子貢曰く、以て為すこと無かれ。仲尼は謗るべからざるなり。他人の賢者は丘陵なり。なお踰(こ)ゆるべきなり。仲尼は日月なり。得て踰ゆること無し。人自ら絶たんと欲すと雖(いえど)も、それ何ぞ日月を傷(やぶ)らんや。まさにその量を知らざるを見るなり。

【筆者意訳】魯国の家老・叔孫武叔(しゅくそんぶしゅく)が仲尼の悪口を言った。子貢は、「先生のことを悪く言うのは間違っています。普通の賢者は例えて言えば丘のようなもので、人が越えることも出来ますが、先生は太陽や月のような存在で、越えようとしても越えられるものではありません。誰も太陽や月を拒めないように、先生を拒むことはできないでしょう。先生を拒もうとするのは、身の程知らずをさらけだしているようなものです。」とたしなめた。

【ひとこと】この章句は、『論語』子張編に出てきます。子貢の働きの2日目です。

叔孫武叔(しゅくそんぶしゅく)の軽薄な意見に対して、子貢は真っ向から否定をし、たしなめています。
その言い方がまた物凄いですね。孔子を太陽や月のような存在に喩えているわけです。”人間ごときが、太陽や月の存在をどうすることも出来ないのと同様に、孔子の事をとやかく言うのは、ごまめの歯ぎしりのようなもので、自分の無知・無能をさらけ出しているようなものだ。”と言っているのです。

子貢は、孔子を、普通の人間とは次元の異なる特別な存在だと考えていたのです。(番外編 孔子の最後)のコラムで、子貢だけが孔子の墓の側に小屋を建てて、六年間も喪に服したことに触れました。子貢は孔子の事を心から尊敬し、誰よりもよく理解していました。その子貢であったればこそ、言える言葉であり、孔子の死後もその偉大さを伝えることが出来たのだと思います。  

Posted by 知好楽 at 07:33Comments(0)論語/子張編弟子/子貢

2019年03月06日

その423 子貢の働き(その1)

衛の公孫朝(こうそんちょう)、子貢に問いて曰く、仲尼(ちゅうじ)焉(いずく)にか学べる。子貢曰く、文武の道、未だ地に墜ちずして人に在り。賢者はその大なる者を識り、不賢者はその小なる者を識る。文武の道あらざること莫(な)し。夫子焉にか学ばざらん、而して亦(また)何の常師(じょうし)かこれ有らん。

【筆者意訳】衛国の公孫朝(こうそんちょう)が、子貢に、「仲尼(孔子のこと)は誰に学んだのですか?」と聞いた。子貢は、「周の文王・武王の教えは、いまでも人々の心に残っています。その中から賢者は国を治める心得を学び、不賢者も日常生活の心得を学んでいます。文王・武王の教えは天下のどこにでも残っているのです。ですから先生は、どこでも誰からでも学ばれました。これといって決まった師がいたわけではありません。」と答えた。

【ひとこと】この章句は、『論語』子張編に出てきます。
孔子の死後、子貢は孔子の偉大さや残した業績の大きさを、世に語って回ったと言われています。孔子の教えは、後に「儒教」として広まり発展していきますが、その背景には、このような子貢の働きがあったと言われています。今日、明日の2回に渡って、子貢の働きを見ていきたいと思います。

公孫朝(こうそんちょう)という人物の問いかけに、子貢は、孔子の「偉大な学びの生涯」を語っています。
孔子は特定の師匠を持つことはなく、周の礼制や音楽などを理想として掲げながら、各地のあらゆる場所で、自分の知見と徳性を磨いていったのです。孔子の学問の師は、周王朝の礼楽と文献であり、諸国を訪ね歩いた間に出会ったあらゆる人々でした。つまり、孔子の人生そのものが、真剣な学びの軌跡だったのです。  

Posted by 知好楽 at 08:12Comments(0)論語/子張編弟子/子貢

2019年03月05日

その422 人生の意味

子曰わく、朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。

【筆者意訳】朝に人としての真実の道を悟ることが出来たら、夕方に死んでも悔いはない。

【ひとこと】この章句は、『論語』里仁編に出てきます。『論語』の中でもよく知られている有名な章句です。
昨日のコラムで、孔子の最後を取り上げました。今日は孔子の生き方を振り返る意味で、本章句を見ていきたいと思います。

この章句の解釈としては、死を目前にした孔子が、弟子たちに向かって、”死ぬことを気にするよりも、生きている内に人道を悟ることが重要である”と求道を励ました言葉という解釈もあります。
しかし私は、孔子が生涯を通じて貫いた、「求道の精神」を語ったものと捉えたいと思います。

孔子の人生は、15歳で学に志してから、人としての生き方=人道を求める人生でした。それは究極の「仁」の追求であり、「忠恕」の完成であったのだと思います。孔子は弟子を教導しながらも、自らも高みを目指して修養に励んだのです。
それでは孔子は、目指す頂きに達し得たのでしょうか? それを示す記録には私はまだ出会っていませんが、おそらく達したのだと想像します。しかしそれを言葉で伝えることが出来なかったのだと思います。禅では「不立文字」と言いますが、悟りは言葉で伝えられるものではないものでしょうから。

孔子の本意とはずれるかもしれませんが、私は本章句の「道」を、”人として生きることの意味”と解釈し、本章句を、「人として生きることの意味を悟ることが出来たら、いつ死んでも構わない」と解釈しています。
人は皆、自分がこの世に生を受けた意味を求めて生きていくのです。その答えは、人生の幕を閉じるまで分からないのかもしれません。しかし、だからこそ人生の旅は、生きる価値があるのだと思うのです。
  

2019年03月04日

番外編 孔子の最後

太山(たいざん)壊(くず)れんか。梁柱(りょうちゅう)摧(くだ)けんか。哲人萎(や)まんか。

【筆者意訳】太山が崩れてしまう。梁柱が砕けてしまう。哲人が死んでしまう。

【ひとこと】この言葉は、『史記/孔子世家』に出てきます。
孔子の最後の様子は、『論語』には出てきません。そこで『史記』の記述から、それを見ていきたいと思います。

子路(しろ)が戦乱で命を落とした翌年、孔子は重い病気にかかりました。子貢(しこう)が面会に行った時、孔子は杖をついて門前で誰かを待っているようでした。孔子は子貢の姿を見ると、”賜(子貢の名)よ、遅かったではないか”と声をかけ、この詩を詠ったのです。

「太山」は中国第一の名山と言われる泰山のこと、「梁柱」は家屋を支える重要な柱のこと、「哲人」は明智の賢人のことで、何れも孔子自身を形容したものです。詠う孔子の眼からは、とめどもなく涙がこぼれ落ちました。

孔子はこの日から病床につき、二度と起き上がることはありませんでした。そして7日後、門弟たちに看取られながら73年の生涯を閉じたのです。
孔子の亡骸は、魯国の都・曲阜の北、泗水(しすい)という川のほとりに葬られました。弟子たちは三年の喪に服しました。子貢は更に三年間、墓の傍らに小屋を建てて喪に服しました。
弟子や魯国の人々で、孔子の墓の周りに移り住む者が百軒ほどありました。そこは「孔里」と名付けられて今に伝わっています。  

Posted by 知好楽 at 07:37Comments(0)番外編

2019年03月03日

その421 無念の心中

子曰わく、鳳鳥至らず、河、圖(と)を出さず。吾巳(や)んぬるかな。

【筆者意訳】今の時代は鳳凰の鳥も飛んでこない。黄河から図版を背負った竜馬も出てこない。これでは私もどうしようもない。

【ひとこと】この章句は、『論語』子罕編に出てきます。分かりにくい文章なので、解説を加えます。

鳳凰は伝説の霊鳥で、瑞兆(良いことが起こる予兆)を知らせる鳥と言われていました。鳳は雄、凰は雌です。伝説の聖人・舜の時代に舞い来たり、周の文王(武王の父)の時代に岐山(きざん)に舞い降りて鳴いたといわれます。これが周王朝が興る瑞兆であったとされています。

河は黄河のこと。 太古の時代に、竜馬(立派な馬)が図版(易の八卦の図)を背負って、黄河から出てきたという伝説があります。これも瑞兆とされています。
古代中国には鳳凰や竜馬が出現すれば、戦国乱世を平定する聖王が誕生するという信仰があったのですが、孔子の時代にはこのような瑞兆が現れなかったのでしょう。

この章句は、孔子が晩年になって、戦国乱世を治めることができなかった自らの力の足りなさと不運を嘆き、心中を吐露した言葉だと思います。
高い理想を抱き、卓越した才能を持ち、優れた弟子を多く育てましたが、孔子は最後まで君主にも聖者にも成りきれず、社会の混乱や民衆の苦悩を解決することが出来なかったのです。
理想の高さと現実の厳しさ、天命の限界などを感じさせる、晩年の孔子の、如何ともしがたい無念さが滲み出ている章句だと思います。  

Posted by 知好楽 at 07:09Comments(0)論語/子罕編

2019年03月02日

その420 孔子が望んだ看取り(その2)

且つ予(われ)その臣の手に死なんよりは、無寧(むしろ)二三子(にさんし)の手に死なんか。且つ予縦(たと)い大葬を得ずとも、予道路に死なんや。

【筆者意訳】孔子は更に、「私は偽の家臣に看取られて死ぬよりは、寧ろお前たちに看取られて死にたいのだ。たとえ立派な葬儀をしてもらえないとしても、路で野垂れ死にするようなことはないだろう。」と言った。

【ひとこと】この章句は、『論語』子罕編に出てきます。昨日の文章の続きになります。

”私は偽物の家臣が居並ぶような体裁だけ整えたような葬儀はしてくれなくていい。それよりもずっと苦楽を共にしたお前たちに見送ってほしいのだ”と伝えています。孔子は、自分を本当に敬愛してくれる人たち、自分の死を悲しんでくれる人たちに看取られて死の瞬間を迎えたかったのでしょう。

孔子は、八佾編で、「礼はその奢らんよりは寧(むし)ろ倹せよ。喪(そう)はその易(そなわ)らんよりは寧ろ戚(いた)めよ(慶事は贅沢にするよりも寧ろ慎ましくしなさい。弔事は体裁を整えるよりも寧ろ心から哀悼の意を捧げるようにしなさい)」(その195 礼の本質参照)と語っています。

人を葬送する時には心から哀しんで見送る。自分が見送られる時も心から哀しんでくれる人に見送られたい。孔子は死ぬ時まで「真心」の人だったのです。  

Posted by 知好楽 at 08:36Comments(0)論語/子罕編

2019年03月01日

その419 孔子が望んだ看取り(その1)

子の疾、病(おもき)なり。子路、門人をして臣たらしむ。病間なるときに曰わく、久しいかな、由の詐(いつわり)を行うや。臣無くして臣有りと為す。吾誰をか欺かん。天を欺かんか。

【筆者意訳】孔子の病が重くなった。子路は孔子の葬儀を立派なものにしようと思って、門人達を家臣に仕立てて役を割り振った。病状が少し落ち着いたとき、孔子が子路に言った。「お前は久しい間いつわりを行なって来たのだなあ。私には家臣などいないのに家臣がいるかのように見せ掛けて。一体誰を騙そうというのか?天でも騙そうというのか?そんなことできる筈がないではないか。」

【ひとこと】この章句は、『論語』子罕編に出てきます。長い章句になりますので、今日と明日の2回に渡って紹介します。

孔子の病気が重篤になったことを聞いた子路は、孔子を大夫(高級官僚)並みに礼遇して葬儀をしたいと考え、弟弟子達を孔子の家臣に仕立て上げようとしました。孔子は魯国王に仕える身ではなかったので、国老としての処遇はされていましたが、官僚ではなく、従って家臣も抱えていませんでした。しかし孔子は司法長官にまで上り詰めた実績もあるので、子路としては、相当の身分として礼遇したいと考えたのでしょう。

しかしそのような子路の配慮を、孔子は心では感謝しながらも、形式だけの家臣や葬儀は必要ないとして、受けようとはしませんでした。孔子は最後まで、人だけではなく、天を欺く行為も一貫して良しとしなかったのです。
孔子は、弟子の顔淵の葬儀の時も、”弟子たちが盛大な葬儀をしてしまった”と嘆いています(その118参照)。
体裁を整えた葬儀は、自分も含めて望んでいなかったのです。  

Posted by 知好楽 at 09:04Comments(0)論語/子罕編弟子/子路