その326 交友の心得・子張(しちょう)の主張
子張曰く、吾が聞く所に異なり。君子は賢を尊びて衆を容れ、善を嘉(よみ)して不能を矜(あわれ)む。我の大賢ならんか、人にして何の容れざるところあらん。我の不賢ならんか、人将(は)た我を拒まん。之を如何ぞそれ人を拒まんや。
【筆者意訳】子張は、「それは私が孔子先生から聞いていることと違うな。君子は賢人を尊敬しながら、一方で未熟な大衆を受け容れ、善人を賞賛しながら能力のない者を憐れむものだ。自分が特別な賢人であれば、誰にでも受け容れられるだろうし、逆に自分が愚か者であれば、人から拒絶されるだろう。だから自分から交友を拒む必要はないのではないか?」と言った。
【ひとこと】この章句は、『論語』子張編に出てきます。昨日の一節に続く文章です。
子夏の、”つきあう友人は選べ”という見解に対して、子張は、”付き合うか付き合わないかは相手が決めることだから、自分の方から拒むことはない”と反論しています。
その理由として、「君子は賢人を尊敬しながら、一方で未熟な大衆を受け容れ、善人を賞賛しながら能力のない者を憐れむものだ」と、君子として持つべき包容力を根拠にしているのです。
おそらく子張の頭には、「君子は周して比せず(君子は誰とでも分け隔てなく付き合うものだ)/為政編・その149参照。」という孔子の言葉があったのかもしれません。
皆さんはどちらの主張に賛同されるでしょうか?
孔子は、あるときは「付き合う友を選べ」と言い、またあるときは「誰とでも分け隔てなく付き合え」と言っています。矛盾することを言ってるように感じますが、それは孔子の対話法に因るのです。
孔子は、弟子と対話する時に、弟子の性格や理解度に合わせた話し方をしました。それが時には矛盾するような表現になることもあったのです。本章句の子夏と子張の理解はそのいい事例と言えるでしょう。
しかし、友人との付き合い方に関して孔子の理想とする所は、相手の性格や考え方に無頓着に盲目的に付き合うような極端にも、付き合う相手を選り好みするという極端にも走らず、中庸(真ん中/丁度いい頃合い)を選んで進むということだと思います。
私たちも、出しゃばりな人には、”もっと控えめにしたら”と言い、引っ込み思案の人には、”もっと思い切ってやったら”と言ったりしますが、丁度良い程度というものは自分の頭に有るのではないかと思います。それと同じと考えて頂ければいいのではないでしょうか。
関連記事